子育て
Facebookでシェアされているこの記事を読んだ。詩というのかな。これにはたくさんの、もっか育児中のママが共感して涙している。そして私も涙した一人である。この気持ちは、子育てをしてみないと決してわからない。それは別に子育てすることがエライって意味じゃ〜なくって、何事もやってみた人でないとわからないという、ただそれだけの話である。しかし、この詩にカアカはあえて続きがあるのだと言いたい。興味のある方はまあ、読んでみて下さい。長いけど。笑
記事提供:子どものこころが穏やかに育つ魔法の育児法
独身の頃、ヒールの靴が好きだった。お酒は苦手だったけれど、友達と過ごすお酒の場の楽しい雰囲気が好きだった。好きな音楽はミスチルで、いつもウォークマンに入れて好きな時に聴いていた。電車の中でゆっくり本を読むのも好きだった。
お風呂では半身浴をして、美容院には2ヶ月に1回は必ず行っていた。
お化粧するのも好きだった。1人で行く映画館が好きだった。
流行りの雑誌を買い、流行りの曲を聴き、流行りの服を着て、流行りの場所へ好きな時に出かけた。
そんな私は今、泥だらけのスニーカーを履き、子どもたちの着替えやオムツが入った大きなバックを肩にかけ、ちゃんとした化粧もせずに、髪を一つにくくり、毎日子どもたちの手を繋いで公園へ散歩に行っている。
聴く曲はミスチルからアンパンマンマーチに変わった。
眺めているのはファッション雑誌から子どもの母子手帳や幼稚園からの手紙に変わった。考えていることは、今日の夕飯のメニューと、長女が幼稚園から帰ってきたあとのおやつ、お風呂、夕飯の流れの確認。
今日の天気で洗濯物が乾くかどうかと明日の長女の遠足が晴れるかどうか。
最近眠くなると激しくぐずる長男を昨日つい怒ってしまったから、今日は早く寝かせてあげよう。今日は怒らないでおやすみをしよう。
そんなこと。
毎日押し流されるように迫ってくる日常があるから、キレイに片付いた部屋も、大の字で朝まで眠れる夜も、ゆっくり塗れるマスカラも、なんだかもう思い出せない。
そう。
思い出せないから、私たちはつい忘れてしまうのだ。
この毎日が、ずっと続かないということを。
1人でゆっくりお風呂に入れるようになったら、湯船の中あなたと向き合い数を数え、柔らかく響いたあなたの声を、私は思い出すのでしょう。
1人で好きなだけ寝返りをうち眠れるようになったら、どこまで寝転がっても隣にいないあなたのぬくもりを、私は探すのでしょう。
好きな音楽のCDを好きなだけかけられるようになったら、この部屋の中に溢れていたあなたの笑い声を思い出して、私は泣くのでしょう。
好きなだけお化粧に時間をかけられるようになったら、私の洋服をひっぱり、膝の上によじ登り、私のやることなすことをお邪魔してくるあなたのその小さな手を思い出して、私は泣くのでしょう。
好きなだけヒールが履けるようになったら、笑い転げるあなたを追いかけて走り回り、泥だらけになって遊んだあの空を思い出して、私は泣くのでしょう。
自分とパパの洗濯物だけを回す日々が訪れたら、砂まみれの靴下も、おしっこを失敗したズボンも、牛乳をひっくり返したシャツも、洗濯カゴにないことを知って、私は泣くのでしょう。
あなたの足音がしない部屋の掃除機をかける日が訪れたら、粉々になったビスケットの食べこぼしも、小さなおもちゃの部品も、あなたの細い柔らかい髪の毛も落ちていないことを知り、私は泣くのでしょう。
1人で好きなことを好きな時に好きなだけ出来るようになったら、どんな時も「ママ」「ママ」と私を呼び、どんな時も私のことを探しているあなたの姿を思い出して、私は泣くのでしょう。
一体いつまであるのかな。
一体いつまでここにいてくれるのかな。
そして、そんなことを考えているうちに、
また、今日も終わってしまった。
私たちの日常は「子どもが側にいる『今』」だから、子どもから離れて1人になれた瞬間が特別に感じて好きなことを堪能できる喜びを噛み締めるけれど、でも自分の人生を考えてみたら、特別なのは、本当は子どもが側に生きているこの毎日の方。
でも私たちはそれを忘れてしまう。
なんだかずっと続くような錯覚を起こして毎日を過ごしているけれど、大変に思えるこの毎日に、数えきれない愛しいが散りばめられていることを私たちはいつか知るのです。
子どもたちがこの世に生まれてから今日までママとパパのために全身を力いっぱい使って思い出を撒き散らしてくれていたことに、私たちは過ぎてから気付くのです。
ママの毎日は、ママでいられる毎日です。
私たちはこの命が尽きるまでどんなに子どもと離れていても子どもを思い、心配し、愛し続ける子どもたちの母親だけれど、でも子どもたちの側で『ママ』でいられることの出来る日のなんて短いことかをいつか思い知るのでしょう。
今日もあなたは、屈託のない笑顔で振り向き「ママ!」と言って両手を広げてこちらに飛び込んでくる。
忘れるものか。
絶対に。
絶対に。
あなたの前髪を切り過ぎて笑った昨日を。
あなたを怒って自分に涙が出た今日を。
あなたの寝相に笑った夜を。
あなたが摘んでくれたシロツメクサの白さを。
あなたに許された私を。
あなたがいてくれるこの毎日を。
私は絶対に忘れない。
ミスチルも好きだけど、Eテレの歌に感動することを知った。
ヒールも好きだけど、スニーカーの安心感が好きになった。
自分のことが一番大切だった。
そんな私に自分の命よりも大切だと思える存在がこの世にはあると教えてくれた子どもたちに、
心から感謝を。
以上。
コレ、うっかり電車で読んじゃったりすると不覚にも泣きます。笑
そして、わかっちゃいるのに反省し、その直後にまた子どもを怒鳴っている自分に気づく。子育てマジック山手線というやつですな。ふふふ。
でもこの話には、続きがあるんです。3歳くらいまでの子を持つお母さんには、まだ遠い遠い未来な話に思えるだろうけれど、それは意外とすぐにやってくる。
毎日が永遠に思える怒涛の子育て中にはわからなかったこと。
それは、「子どもと母親は一緒に成長するのだ」ということだ。
え?そんなのわかってるよ〜と思うでしょう。でも意外と振り返ってみなければわからない。我が子がちょうど、小学3〜4年のまさに今の時期にハッキリ気づく。
この記事を、客観的に眺められる自分に気づきます。そしてこれが、渦中のお母さん向けに書かれていることに気づく。
子どもと一緒にうま〜く成長できてる母は、昔のアルバムを見てこそ「あ〜可愛いかったのう」とは思えど、泣きはせん。懐かしいなあ、と感傷に浸ることも皆無です。どうですか、まわりの子育て終了した女性を見て、図々しくはなっているものの(笑)晴れ晴れとしたお顔をしているじゃありませんか。
子どもはある日突然大人になって巣立つわけではないのだ。
毎日少しずつ少しずつ大人になって、そして母も少しずつ少しずつ大人になっていく。
ある日気づいたら、少しずつ手の離れた我が子を見て、感動する。そこに寂しさなどない。立派に育て上げた勲章を見るのみである。
反抗期も少しずつやってくる。ある日突然とまどうことはない。
「こんなに可愛くて、大切な時間は今しかないんだよ」
と言われるけれど、そんなことはない。
子どもはいつまでたっても今が可愛い。もう一度2歳児に戻って欲しいなど思わん。
もう一度化粧に精を出す、いいじゃないですか〜。もう一度ヒールが履きたかったら履いてくれ。娘も息子も喜ぶはずである。
今を大切に過ごさなくちゃと反省しているお母さん、大丈夫です。
余裕が持てないのは当たり前なのだ。怒ってしかり、イライラしてしかり。
子どもも大人も、一緒に成長中なのです。
暗中模索の子育てトンネルをかいくぐり、その先の花畑を一緒に見ようではありませんか
なーるーほーどーーー!深イイ!!
最近、Facebookでも、これがよくシェアされていますね。
なんか、わかるー…
子供が大きくなって離れていくさびしいきもち…
もう、あの頃には戻れない…
と思っていたけど、なるほど。
自分も成長してるわけですね。
今の時間を大事にしつつ、一緒に成長したいと思いました。
投稿: えり | 2016年4月 3日 (日) 17時44分
あ、えりさんだ〜こんにちは!
久々のコメント、なんか入ってる予感がして開けてみたら。笑
そうそう、この記事、読んでてどこか違和感を感じる自分に気づいてびっくりしたんです。そしてよく考えてみたら、ああ自分も子どもと一緒に成長していたんだなと。少しずつ親離れしてる子どもと同じだけ、自分も子離れしている。面白いですね。小さい頃は、小学生なんて世界、想像もできなかった。まだまだ先の未来だと思ってた。今も、中高生を持つお母さんたちを見ても実感がわかないけど、きっとすぐにやってくるんだろうな。そしてまだ柔らかい手をつないでくれる娘に、巣立つ寂しさも感じたりするけど、きっとその時が来たら今と同じように、もう一度あの頃に戻って欲しいなど思わないのだろう。思った時点で母、成長失格だと思う。笑
子育てとは深い
投稿: かおかお | 2016年4月 4日 (月) 11時55分